2010年12月17日

一利もない、のか?

表現と言うのは両端が担保されて、自由な選択肢の中から選ばれることによって初めて意味を持つ。端的な例で言うと、某隣国で国家主席万歳を連呼する人と、某英国で女王陛下万歳を叫ぶ人とでは、言葉の持つ意味がたぶん違うだろう。表現家が時として過激な表現に固執するのには、その表現そのものに必然性があると言うこともあるだろうが、その表現がなされないとそれ以外の表現とて真実味を帯びないからであったりもする。私は幼児の強姦マンガを読むことはおそらくないであろうし、子供に見せたいとは思わないが、だからと言ってそれを描いた人が逮捕される社会であってはならないと思っている。絵や言葉や思想は自由が保証されていないといけない。それであって初めて、それが実際に何を突き付けているのか、現実に何がなされてよくて何がなされてはいけないかを議論することができる。それが憲法が守ろうとしたものであったはずだ。
posted by irijako at 19:30| Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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